三島の民話 番者坂の名判官

番者坂の名判官

この話は、故 山内為之輔氏の記述書によるものです。

西方部落の北端、柿平の先に狭い谷にかけられた橋がある。谷の小川は、麻生開田の際、田に水を引いた。

その橋を渡ると上がりのダラダラ坂になる。坂の上で道はふたつに分かれ右は柳津道で、麻生部落を通って行く。左は黒沢峠を越えて西会津坂になる。

この道路は野沢、早戸間が県道になった時、現在のように立派なものになった。それ以前は、まったくの山道であった。

ゆうれい清水のところから、こどもがようよう登れる険しい近道があった。ここから柏木山西の斜面の曾根にそって畑を通り、黒沢部落外れの鎮守森の前に下りた。きれいな冷たい清水がわすれられない。

大沼、河沼の群境は西方部落外れの「山刀が沢」であるが、こくどめの時は無論のこと、平時でも会津藩とお蔵入りの境に番所を設け役人が監視していた。

この番所は橋のたものとにあったらしい。それでこの辺りは「番者坂」とよばれた。又参宮坂とか参宮峠ともよばれた。それは西方奥地の人々が伊勢参宮に行くとき、この坂を越えて野沢から越後を通り、伊勢参宮をしたからである。

さて、番者坂の番所でのおもしろい話が伝えられている。

むかしむかしある時な、ふろしき包み背負った百姓風の男が通ったど。

「これこれ包みの中をみせよ」役人の声にオロオロして包みをひろげただど。なんとふろしきん中は全部ロウソクだったど。

「こりゃロウソクじゃないか。こりゃ〜こまった。おまえも知っておろうが。今の世はロウソクと漆は越境禁止品であるぞ」

「はいはい承知してますが・・・お伊勢参りさ行ぐだが、

なんとも銭が無ぇがら・・・」おごらっちゃ男は頭さげさげ

「国家安全、五穀豊饒祈願に行ぐだっし・・・このロウ

ソク売りながらお金にかえるので・・・許してくんつぇ」

つっただど。

役人は、しばらくその男んどご見ったっけが、ウソではないな、真面目なやつだな・・・そう判じらっただべぇ。

「これ志しはよくわかったぞ。したがぁ、掟はおきてじゃよ。奇特なことだが通すわけに参らぬ」つうだど。

「はい〜〜はい〜〜んじゃも、なんとか・・」

「掟をやぶるわけにはまいらん。すぐ元の道をもどれ」

つったど。

 男は力無く立っちゃがって、引き返すべぇどした、その時だど

「これこれおまえが来たのはそっちではない、向こうへ行け」って指さしたのは、男が行ぐべどしてた番者坂を越す峠道だっけど、越後坂を指さしただど。

「えっ?」百姓はキョロキョロして、ハッとしてなぁ~有り難くて有り難くて感謝の涙で役人にあづーぐお辞儀をしてなぁ、参宮峠を越えていったそうだ。

こんな話は、明治時代に古老がら聞かったそうだ。そんじぇな「番者坂」の名半官ちゅう事が伝わって居んだよ。

                    

元話 故山内為之輔さん(西方)

再話 五十嵐七重さん(西方)