鬼子母神堂


鬼子母神堂

 西方地区の岩倉山の頂きにある鬼子母神堂は、地元だけでなく会津方部、県内外からも広く信仰を集め、5月5日はこの堂のお祭の日で、多数の人々が参詣に訪れる。現在は西方地区を中心に「西方鬼子母神奉賛会」が組織され手厚く守られているが、当初は数名の有志が御堂を建て、お祭を行っていた。

 鬼子母神信仰を広める上で中心的な役割を果たしたのは、旧西方村に住んでいた青木源九郎光国氏(文政5年~明治23年)で、明治2年に御堂を建立、信仰の基礎を拓いた。青木家は江戸時代末に西方村名主を務め、光国は明治維新後、西方郵便局長にも任命されている。お堂建立のはっきりした理由は分からなくなっているが、源九郎光国の直系の子孫に当たる西方地区の山垣家には、御堂建立の伝説が伝えられている。山垣家の現当主・亘(わたる)氏によると、病気で足腰が立たなくなった源九郎光国の夢に鬼子母神が現れ、鬼子母神に祈願すれば病が治るとのお告げを与えたという。

 岩倉山頂が御堂の地に選ばれた理由は不明だが、山頂にはそれ以前から三十三体の観音像が奉られ、山自体が霊山として古くから信仰を集めていたからかもしれない。現在の御堂は建て替えられてトタンぶきになっているが、最初の御堂は草ぶきで、ご神体は顕法寺(現・新潟県新発田市)の本尊である鬼子母神を分祠、彩色された木造の鬼子母神像を安置した。像は高さ70センチほどの木像で、光背を背負い、剣を振り上げ、顔には破邪の相を浮かべている。最初は5~6人の熱心な鬼子母神信者が旧西方村におり、旧暦4月8日を祭の日と定めて御堂に礼拝、その場で飲食・交歓したという。

 昭和11年、旧西方村在住の山内才伍氏を中心に、約20人で「西方鬼子母神奉賛会」を結成、信者組織が整備された。奉賛会はポスター、チラシをつくって会津方部で鬼子母神の宣教活動を行ったため、現三島町地区以外にも、西会津、柳津などを中心に会津方部全域に会員が広がった。現在でも柳津地区などに住む高齢者の中には子供のころ、鬼子母神堂に参詣に来たという人は多いという。

 信仰の広まりとともに、祭も賑やかになり露店も並ぶようになった。祭日の旧暦4月8日は鬼子母神堂の祭と西隆寺の花祭りが重なるため、鬼子母神堂と西隆寺の両方にお参りする者が多かった。

 昭和48年には鬼子母神堂に落雷があり、建物に被害が出た。このため奉賛会は500人以上から530万円以上の浄財を集め、昭和50年に建て替えを行った。当時の寄付名簿を見ると、野沢、喜多方、柳津、若松、塩川などの会津方部だけでなく白河、東京などの住所・人名が記され、信仰の広がりをうかがわせる。

 今日でも地元を中心に鬼子母神への崇敬の念は強く、西方地区の住民は毎春一回、参道の清掃を行っている。祭の日は現在、気候や参詣者の便宜を考えて5月5日の子供の日に変えたが、当日は参詣者の列が山頂を目指して登る様が見られる。

<奥会津書房『三島町散歩』より>