カノ(焼き畑)

 西方地区では歴史的に焼き畑農業は一般的ではなかったが、食料事情の悪化した太平洋戦争前後から昭和30年ぐらいまで焼き畑が盛んに行なわれた。焼き畑に利用されたのは西方集落から北にある「入り山」(共有地)の黒男山で、焼き畑は「カノ(火野)」、焼き畑作業は「カノうない」と呼んでいた。焼き畑は当時、西方集落の半分ぐらいの住民が行っていたが、主に集落部に田畑が少ない家が焼き畑を行っていたという。地区住民の中には「入り山」の共有権を持っていない家もあったが、こうした家は使用料を支払って、「カノうない」を行っていた。

 黒男山で焼き畑ができる場所は数ヶ所あり、「ヒンムキ」「ナガサカ」「ハネッコ」「アマグゾウ」「カシュウノダイラ」「イチノクボ」「ニノクボ」「サンノクボ」「ナナクボ」などに分かれ、「ナナクボ」には夏でも冷たい清水が湧き出していた。集落からは、登り下りが続く約8キロメートルの山道を歩かなければならなかったが、多数の村民が行き来したため道は踏み固められ歩きやすかったという。途中では普通、「七人畑」と呼ぶ場所で小休止をとった。「カノ」までの往復には時間がかかり、早朝に集落を出ても焼き畑地に着くのは午前九時ぐらいになった。山のため日没も早く、作業も午後四時ぐらいで切り上げたため、実際の労働時間は比較的短かった。当時、大人たちと一緒に作業を体験した子供たちにとっては、作業時間が短く、往復の道のりも遠足気分があって「カノうない」は楽しいものだったと言う。

 主に蒔いたのはソバ・マメ・アズキ・トウモロコシ・オカボ・アワ・キビなどで、作業の最盛期には「カノ」で百人近くが働いていた。

 「カノ」をうない、種を蒔くときは臨時の小屋を立て、十日ほど寝泊りして作業を続けた。「カノ」の一つ「ヒンムキ」では小高い場所に15~16軒の小屋が並び、清水から水を引いてつくった共同の風呂場もあった。小屋の屋根はその場で刈り取ったカヤを使ったという。このほか「ヒンムキ」にあるいくつかの沢沿いには、2~3件ずつ小屋が建てられ、一部には水田もつくられていたという。

 また、「入り山」は焼き畑として利用する以外、カヤ、ススキの刈り場としても使われ、草刈りの作業を「ヒクサカリ(干草刈り)」と呼んだ。当時は各家に馬・牛がいたので、敷き藁や田の肥料に利用した。秋に刈り取ったカヤやススキは現地で束ね、干した上で各人が集落まで担いで運んだ。田の肥料にするときは、「押し切り」で「ヒクサ」を細かく刻み、一冬かけて熟成させたという。

 現在、西方地区の住民らが財産区として所有している山林は、明治時代その所有権をめぐって、国と住民の間で法廷闘争が行なわれた。この山林は本来、旧幕時代から旧西方村の「入り山」(共有地)だったが、明治の初期に行なわれた地租改正の際、役所側が誤って官有林と登記してしまい、旧西方村の共有地と再確認されるまで長い年月を経た。

 法廷闘争の先頭に立ったのは旧西方村在住の小松爲吉、青木■■の両氏で、財産区(■■■■■共有会)の同意を得て、小松氏が明治30年に行政訴訟を提起、八年がかりで勝訴判決を勝ち取った。

 共有会は小松氏の奮闘に感謝の意を示すため、明治33年から20年間、訴訟の対象になった105町歩について、樹木などを自由に処分してよいとした。

 これを受けて小松氏は、樹木で炭を焼いて野沢方面に出荷したほか、共有地から只見川まで流れる逆瀬川を使って、材木を搬出した。炭は人が担いで、カノの「ヒンムキ」から「カシュウノダイラ」、さらに山道をたどって現在の西会津町黒沢を経由、同町野沢まで運ばれた。逆瀬川沿いには炭焼き小屋・炭倉が建てられたほか、山の曽根には作業小屋も建てられ、多数の作業員が夏・冬を問わず働いていた。

 また、作業の安全を祈るため、山ノ神を奉る石祠もできた。西方地区では山ノ神の祭日が旧暦9月19日になっていたため、共有地の祠でもこの日に祭事を行い、作業の安全を祈ったと言う。

 昭和34年には、爲吉氏の功績を称える大きな石碑が旧西方小学校の道向かいに建てられた。この訴訟のほか、大沼郡会員、西方村会員などを歴任して郷村のために尽力した爲吉氏の功績を称えるもので、その碑文からは今なお先人の労苦が読み取れる。

 現在、共有地の全て杉が植林され、往時の面影を見つけ出すことは難しい。祠はかつてのカノ・通称「ヒンムキ」から山腹をわずかに登った場所にある。現在はヤブに被われ、参道もないが、かつて作業員らの崇敬を集めた山ノ神の石祠は今もその場にたたずんでいる。高さ70センチほどの石の祠はお堂型で、現在の西会津町にある大山祗神社のお札を祭ったという。祠の側面には文字が刻まれ、小松為吉、田崎留次郎、京塚由次郎の各氏をはじめ作業員一同で建立したことを伝えている。神域からは現在の美坂高原を越えて只見川対岸の山並みが遠望できる。

 為吉氏の直系の子孫にあたる小松昭八氏らは今日でも毎年、9月の祭日には祠にお参りを欠かしていない。神祠にはお供え物の「オゴフ」を供え、二礼二拍一礼して参拝、曽祖父たちの霊を慰めている。

<奥会津書房『三島町散歩』より>