小柴倉次翁顕彰碑


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 高清水の発展に寄与した小柴倉次翁の顕彰碑。古峯神社につづく階段の途中、昭和15年に台北陸軍病院にて没した陸軍歩兵上等兵であった小柴利雄氏を称える碑の隣りに建っている。

撰文は東京教育大学附属高等学校長の横田佐代次のもの。
 以下は碑文の全文(改行、句読点は投稿者による)。

 小柴倉次翁は元治元年四月二十九日、本村名入小柴彦七の二男に生れ、十九才の時、高清水小柴ひさの養子となる。貧しい農家に生をうけたのであるが、幼少より気立やさしく正直で長ずるに従い農事に励み、養家の人となってからも刻苦精励、特に養蚕植林を合理的に経営し、村の模範となる。
 翁は生来いつくしみの心あつく、貧しい家庭や苦しんでいる人たちに対しては自らの乏しきを顧みず、明日の食糧の中から之を分ち与えて喜びとした。積善の家に余慶ありのたとえにたがわず、やがて村人におされて村会議員、区長、学務委員の名誉職につき、郷土の発展に努力された。また子宝に恵まれ九人の子女ことごとく成人してそれぞれ社会の有為な働き手となり、とくに長男初太郎は村会議員、区長、教育委員を歴任して巌父のあとつぎにふさわしきものがあった。
家督を譲ってからも村政の顧問的地位にあり、後進の指導や育英等に心を傾け、特に太平洋戦争中は老の身もいとわず出征家族の慰問激励に努力を惜まず、終戦後も村の経済復興や民主々義文化の発展に余生を捧げて休むことがなかった。
翁の一族は云うまでもなく、村の人びとはその高徳を慕いて天寿の限りなきを願い、里の誇りとしておつたのに昭和三十四年三月十九日九十六才にして遂に昇天されたのである。
 茲に生前の人なりの一端を記して後世にとどめる。
撰文 東京教育大学附属高等学校長 横田佐代次