早戸地区


山城公園展望台から早戸温泉を臨む

宝亀元年(770)、一羽の白鶴がある岩下に留まり去らなかった。数日の後、猟師が近づいてみると白鶴が脚の傷を湯にひたし癒していた。これが現在の早戸温泉「つるの湯」のはじまりとされる。三十数年ののち、大同年間(806-810)に徳一大師が温泉湯出の岩に三つの梵字を刻んだとも伝えられるが、現在その場所は発電所建設のために水没している。
文治5年(1189)の源頼朝の奥州征討ののち、その功により山ノ内氏は大沼郡、会津郡の69ヶ村の支配権を得たという。早戸もその一村であるが、早戸、滝原は大石田、名入とともに三坂山大高寺の寺領であり、山ノ内が支配したのは天文21年(1552)に大高寺が西方鴫ヶ城の城主である山内重勝によって滅ぼされてからのことだとも云われる。中世末には早戸館と呼ばれる館もあったとされ、地名にも残っている。幕藩時代には滝原とともに大石組に属した。
 早戸が現在の居平に集落を形成したのは文和4年(1355)に「五月山崩れ」が起こり、檀那寺であった真言宗小林寺が埋没、湯の平が危険な状態になってからだという伝承がある。
 近世、早戸には田地がほとんどなく、食生活は雑穀が主体となり、カノ(焼畑)によってソバや粟を作ることが盛んであった。焼畑は早戸にとって重要であり、安永2年(1773)には焼畑地の境界をめぐり大石田と山論が繰り広げられている。そんなわずかばかりの田も近代に入ると、宮下発電所工事のために水没、国鉄川口線工事のために潰地等により現在は皆無に等しくなった。このような土地環境であるため「関東かせぎ」と称した出稼ぎも生活の重要な支えとなり、石工や木挽として近くは坂下、柳津、只見、遠くは関東地方まで出稼ぎに出たという。
 早戸は30祠以上もの社祠があり、篤く信仰されている。毎年の6月20日は「神々の道刈り」の日とし、各家々で道刈りを行っている。近年、「神々の道」として道も整備され、以前と比較して参詣もしやすくなっている。また田畑の耕作のため、殺生した虫を供養する「虫供養」と呼ばれる行事も毎年11月10日(かつては旧暦の10月10日)に行われており、県指定の無形民俗文化財にも指定されている。

<奥会津書房『三島町散歩』三島町史出版委員会『三島町史』より>